9月1日 記念日 その2   ( その他祝日、記念日、年中行事 )

関東大震災発生の日(続き)。

津波の発生による被害は、太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で発生し、高さ約10m以上の津波が記録された。山崩れや崖崩れ、それに伴なう土石流(土砂が水[雨水や地下水]と混合して、河川・渓流等を流下する現象)による家屋の流失や埋没の被害は、神奈川県の山間部から西部下流域にかけて発生した。特に、神奈川県足柄下郡片浦村(現在は神奈川県小田原市の一部)の国有鉄道(現在の東日本旅客鉄道[JR東日本])熱海線根府川駅では、地震発生直後に駅のホームに入線しかけたところで、8両編成の列車が地滑りによる土石流に遭遇。根府川駅の駅舎やホーム等の構造物もろとも海側に脱線転覆して、最後部の客車2両を残して全てが海中に没してしまった。この事故に遭遇した列車の乗客乗員と、根府川駅にいた乗客、及び駅勤務職員の内、112名が死亡(行方不明を含む)、13名が負傷した。さらに、その後に発生した別の土石流で村の大半が埋没、数百名の犠牲者を出した。震災当時、通信・報道手段としては、電報と新聞が主なものであった(ラジオ放送は実用化前であり、電話も一般家庭に普及していなかった)が、\xC5

欄鮄豕類砲△辰\xBF16の新聞社は、地震発生により、活字ケースが倒れて活字が散乱したことで印刷機能を失い、さらに、大火によって13社は焼失、報道機能は麻痺した。関東以外の地域では、通信・交通手段の途絶も加わって、伝聞情報や新聞記者・ジャーナリストの現地取材による情報収集に頼らざるを得なくなり、新聞紙上では「東京(関東)全域が壊滅・水没」「津波赤城山麓にまで達する」「政府首脳の全滅」「伊豆諸島の大噴火による消滅」「三浦半島の陥没」等といった噂や、デマとされる情報が取上げられた。震災発生後、混乱に乗じた朝鮮人による凶悪犯罪、暴動等の噂が行政機関や新聞、民衆を通して広まり、民衆、警察、軍によって朝鮮人、また、それと間違われた中国人、日本人(聾唖者等)が殺傷される被害が発生した。これらに対して、9月2日に発足した第2次山本内閣は9月5日、民衆に対して、もし朝鮮人に不穏な動きがあるのなら軍隊、及び警察が取締まるので、民間人に自重を求める「鮮人ニ対スル迫害ニ関シ告諭ノ件(大正12年9月5日内閣告諭第2号)」を発した。当時、警視総監(警視庁の長)で

あった赤池濃は「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、「衛戍総督に出兵を要求すると同時に、警保局長に切言して」内務大臣(現在の総務省国家公安委員会警察庁国土交通省厚生労働省等の前身となる内務省を指揮監督した国務大臣)の水野錬太郎に「戒厳令の発布を建言」した。これを受け、9月2日には、東京府下5郡に戒厳令を一部施行し、9月3日には東京府と神奈川県全域にまで広げた。なお、戒厳とは、戦時において兵力をもって一地域、或いは全国を警備する場合に、国民の権利を保障した憲法・法律の一部の効力を停止し、行政権・司法権の一部、又は全部を軍部の権力下に移行することをいう。軍事法規の1つであり、戒厳について規定した法令を戒厳令という。大日本帝国憲法制定前の法体系において、戒厳の態様を規定していたのが、1882(明治15)年の「戒厳令明治15年8月5日太政官布告第36号)」である。その後、1889(明治22)年2月11日に公布された大日本帝国憲法の第14条において、「天皇は戒厳を宣告す。戒厳の要件及効力は法律を

以て之を定む」とし、憲法の体系に組込まれた。このように、「戒厳令」は、「戒厳」を規定した法令の名称であり、「戒厳の布告」により、「戒厳令」に規定された非常事態措置が適用されることになる。また、東京周辺が騒乱状態に陥った際に採られた行政措置を「戒厳」ということもあり、この時に施行された戒厳令は、騒乱鎮圧を目的としたいわゆる「行政戒厳」である。また、戒厳令の他、経済的には、非常徴発令、暴利取締法、臨時物資供給令、及びモラトリアム(支払猶予令[天災、恐慌等の際に起こる金融の混乱を抑えるため、手形の決済、預金の払戻し等を一時的に猶予するもの])が施行された。既に第一次世界大戦期のブームによる反動で、戦後恐慌に陥っていたところへ、震災はさらに追討ちをかけることになった。多くの事業所が壊滅したことから失業者が激増し、さらに、震災の被害によって決済困難に陥る約束手形(震災手形)が莫大な額に上った。震災直後の9月7日には、緊急勅令(緊急時の法律に代わるものとして、法律を執行するため、又は公共の安寧秩序を保持し、及び国民の幸福を増進するために天皇が制定していた法的効力のある命令)\xA4

砲茲襯皀薀肇螢▲爐ⅸ个気譟\xA29月29日に至って「日本銀行震災手形割引損失補償令(大正12年9月23日勅令第424号」が出されて、震災手形による損失を政府の補償する体制が採られたが、その過程で戦後恐慌に伴なう不良債権までもが同様に補償され、これらの処理がこじれ、昭和金融恐慌(社会全般に金融不安が生じたことから、銀行の相次ぐ休業や、中小銀行を中心とした取付け騒ぎ[特定の金融機関や金融制度に対する信用不安等から、預金者が預金・貯金・掛け金等を取戻そうとして、急激に金融機関の店頭に殺到し、混乱をきたす現象]の発生等、経済的な混乱が発生した現象)を起こすことになる。震災では、レンガ造りの建物等が多数倒壊したが、「耐震構造の父」と評される建築構造技術者・建築構造学者の内藤多仲が設計し、震災の約3ヶ月前には完成していた東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)丸の内に所在する日本興業銀行(現在のみずほ銀行の前身の1つ)本店ビルは無傷で残ったことから、一挙に耐震建築への関心が高まった。既に、1919(大正8)年には「市街地建築物法大正8年4